私たちは、お金を求めて働きます。
なぜ、お金を求めて働くかといえば、お金がなければ、生きていく上で必要な食料品や飲料、住居や衣服などを確保できなくなり、生活できなくなるからです。
ですから、私たちは働きます。
お金を求めて働きます。
しかし、ここに大きな分かれ道が存在します。
お金を求めて働くことは、当たり前のことであり、何も間違ってはいません。
しかし、より多くのお金を求めて働き出すと、かなり厄介なことが起きはじめます。
働くために生きる、という本来の生(ライフ)とは真逆の現象が起きはじめ、自己を見失い出します。
私たちは、人間という生き物ですから、命ある存在です。
椅子のような物体は、活動しなくても、一定期間、そのままの形をとどめ続けます。
他方、命ある生き物は、自ら活動し続けなければ(歩いたり、食事をしたり、お風呂に入ったり、歯を磨いたりしなければ)体を健康なまま維持できなくなります。
ここに物質と生命の明らかな違いがあります。
そして、働くために、命の働きを使い切ったなら、私たちは本来の自己を見失い、シロアリのような奴隷的な生き物と化してしまいます。
しかし、私たちは、本来、奴隷的な生き物ではなく、自由な生き物です。
ここでいう自由とは、幸せな生き方もできれば、その逆に不幸な生き方もできる自由さを持っている、という意味での自由です。
私たちの本来の生のあり方(命の働かせ方)は、働くために生きる(奴隷的生き方)ではなく、自分らしく生きるために、生活に必要な分だけ働く生き方です。
働くために生きているなら、それは非本来的な生き方なので、そこには自己はなく(自己を見失い)、命あるものとして、生きている悦びを感じ取れない不幸な生き方に陥っていることになります。
そこで、この講話会では、幸福な生き方とは、どのような生き方なのか?
生きるために、私たちは必要に応じて働く必要があるけれど、お金を得るために働くうちに、私たちが直面し得る「幸福の自己破壊」とはどのようなものなのか?
幸せは、精神(理性)の働きによって意志的につくり出すこともできなければ、お金を介して買うこともできないこと、などをみなさんと一緒に哲学的に考察しながら、自分らしく幸福に生きる、とはいかなることなのかを明らかにしていきます。
金があれば、これらのものを必要なだけ手に入れることができます。
ですから、
我思う、故に我あり。
と言ったのは、17世紀の哲学者デカルトですが、内面的な自己観察によって認識される「考えるこの私」(考える自己)は、真の自己ではありません。
真の自己は、あなたの意識の対象として内省によって認識できる存在ではないからてす。
それほどそれは、あなた自身と一体になっているため、あなたがその存在を意識し、認識できるのは、それを失いそうになった時
人生は選択の連続だと考えられています。
何かを選んで、その結果として良いことが起これば、「正しい選択をしてよかった」と喜び、逆に期待に反することが起こると、「誤った選択をしてしまった」と後悔してしまう。
この講話でお話しするのは、あなたが何を選ぼうと、その後の展開がどう転ぼうと、日々、生きている「喜び」と「幸せ」を実感しながら生活できるようになる生き方。個人の幸福とは何か
人間のあらゆる行為、選択の最終的な目的は目的は何か
行為が目指すこの目的を善と呼ぶ
人間は様々なことを行い、さまざまな選択をなす
そして自分の選択を善いと把握し表現する
二つの選択肢があり、どちらを選ぶこともできる場合、我々は何を目指しているのか
誰が指図するのでもなく咎めるのでもく、自然な人々が好きに振る舞いながら、必要な時には必要な人に席が譲られるよあな社会
それが今我々の求めている生活の場
そうした場をつくりあげるはあはあはただ一つ
そうした葉を求めること
志すこと。そしね、そうした場が生まれ、持続するよあに、しよあきようにおいて考え、考えに従って振る舞うこと
それぞれの状況の中に小さな差異を持つ多くの行為の選択肢が我々のまえには常に存在している
そのどれをどの代アニ選べば、自分が今いる母は、自分が自分であることがより容易になるか、自分と他人かがともに自分らしくあることが容易になるか、自分の必要垢満たされた時、譲れるものわ譲ることにより、場はそうしたものにできるのではないか
こうしたことを考える場合と、考えない場合では、我々の行為の有り様は大きく変わるだろ
生きている「おいしさ」を味わいながら生活するには、何よりもまず、そのおいしさを感じ取れる「自己」が存在していなければ、話しになりません。
この「自己」とは、「わたしは自分(私)のことが好きだ」または「嫌いだ」と評価している「わたし」のことでも、評価されている「私」のことでもありません。
評価する「わたし」と、評価される「私」。
この両者は、思考によってつくり出された「自己イメージ」であり、それを自分だと思い込んだままでは、本来の「自己」が見失われたままになります。
本来の「自己」を感じとれるようになると、それまでとはまったく異なる人生(幸福)が開きだします。
これから毎月1度のペースでこの講話会を続けていきますので、人生の豊かさ、味わい深さを日々、実感しながら生きたい、と思われた方は、この講話会にぜひご参加ください。
矢沢大輔
講話会の内容に関連した
今まで「思考をつかまえてはいけないです」とか、「あけ渡す」という様な表現を聞くたびに、つかまないように監視しようとしたり、「どこまであけ渡すの?」という疑問を感じていました。でも、ただ、ありのままに受容するだけでいい。どんなにいやな事も、どんな相手の言葉も、あるがままにしておいて良いとわかり、なんて楽なんだろう、何にもしなくて良かったんだと納得できました。
(M.Sさん 50代女性)
講座を受講して、長年の疑問点だった「肉体の中に閉じ込められた自分がいる」という感覚が解消できたのは大きな収穫でした。また、なぜこの感覚に陥ってしまうのか、今後その状態であった場合の対応方法まで教えていただき、大変勉強になりました。
(S.Fさん 40代男性)
すべてが現れ消えていく。何も足りないものも解決すべきものもなく、あー、今ここがゴールで、ここの他に行くべきところも、欠けているものもなく、ただすべてが豊かに無償で与えられている。自分と思ってたものが、分離の原因で、苦しみの元。それに気づき、目覚めたときの体験をまた求めてしまうとらわれにも気づけた。面白かったです。
(50代 男性 経営者)
思考が無意識レベルで「分離感」を生み出し、「私が正しい。私に非はない」と証明されるまで、誰とでもいつまでも闘う特性があり、これに気づかないと一生平和が訪れないことを理解できました。ただあるがままでよく、何の努力もいらないのに、今まで無益なことにこだわりエネルギーを費やしてきた人生を振り返り、これからはもっと平穏に過ごしていきたいと思いました。
(40代 菊池和寛さん)
自分と他人を分けているのが思考だと気づかせてもらえました。また自分が正しくて相手が間違っていると言うのも分離感を強化しているのだなとわかりました。最初の頃はめっちゃ質問があったのですが、最近はあまり質問がわいてこないです。質問しようとすると矢沢さんの答えがなんとなくわかってしまったりします。少しずつ気づきを増やすように日常に取り入れたいと思います。
(40代 女性)
ノンデュアリティの本を読みあさったり、様々な人のYouTubeを見てきましたが、矢沢さんの話を聞くことで、非二元とは何かをとてもよく理解できました。夫や子供に対する怒りの感情で悩んでいましたがそれが先生だったということも納得でき、これまでのサイクルからやっと抜け出せそうです。真実の話を聞いていたら感動して泣きそうになりました。今日生まれ変わったような気持ちです。新たな気持ちでLIFEを楽しめそうです。今日の非二元入門は、私的には入門ではなく、これが全てだと理解し、出席してとても良かったと思いました。
(清水美智代さん)
今日はとても面白くて楽しい時間でした。一年前に非二元というワードを知り、意味のわからなさを解消したいと思い、何人かの人のブログを読んだのですが、さっぱりわからないままでした。今日、講座に参加して、今まで考えてもわからなかった部分がどんどん腑に落ちていって、全く難しくなかったということに気づきました。お話を聞き終えて、見えてるものが変わってきたように感じます。私は最初から自由だったことに気づけて、気持ちが軽くなりました。
(N.Kさん 40代女性)
どんどん質問することがなくなってきて…とうとう「あ〜、どうやったら目覚められるのかなぁ」と思っている自分もいなかったんだ。そういう思考があっただけだったのか…と気づきました。これは、結構、大きな経験でした。
(A.Iさん 40代女性)
普段、無意識のうちに思考にのみ込まれて苦しみにハマってしまっていたことに改めて気づくことができました。思考や感情も含め、すべてはただ現れては消えていくものと気づいていたいと思います。あるがままの素晴らしさに気づいていたいです。ありがとうございました。
(50代 男性)
【日時】
2025年5月25日(日)
10:00~12:20(途中10分間の休憩あり)
【会場】
zoomによるオンライン開催
【受講費】
通常価格 8,200円
非二元のセッションを受けた方 7,300円
【定員】
12名
【ファシリテーター】
ライフコーチ 矢沢大輔
【お支払方法】
カード決済または銀行振込み
お申し込みの際、
携帯アドレスで登録されますと、
迷惑メールとしてはじかれる可能性があります。
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